LOGIN凜は傍聴席から三歩進み、半円の内側で足を止めた。 十二家の視線が、すべて凜に向く。燭台の光が手帳を抱えた凜の指先を黄色く照らし出した。「一条グループ副会長、一条凜です。同席者として弁明いたします」 赤ら顔の男が隣の婦人に何か耳打ちして笑った。凜はそちらを見なかった。「審問官が挙げられた六点について、順にお答えします」 凜の声はよく通った。昨夜のうちに何度も組み立て直したのだろう。言葉に淀みがない。「第一の承認を受けずに当主を名乗った件。一条家の継承は、本家の定めた手続きをすべて経ています。評議会の承認が必要だというのであれば、その規定を一条家に伝えるべき立場にいたのは、三十年間この席に座っていた一条重蔵です」 凜は空席の名札を手で示した。「重蔵は評議会の存在そのものを一族に伏せていました。伝えられていない規定を守れなかったことを、資質の欠如と呼ぶのは筋が通りません」 何人かが目を見交わした。「第二、第三の件。重蔵は三十年にわたって一条の資産を私的に抜き取り、監査を担っていた当主の母を事故に見せかけて何者かに殺させました。これは日本の法廷で認定された事実です。殺人の教唆を犯した者を、評議会の席にいるという理由で法の外に置けとおっしゃるのですか」 聴聞の間が静かになった。銀髪の婦人の扇子が止まっている。 いける、と思った。凜は自分の言葉で、エドモンドの六点を一つずつ切り崩している。「第五の、血縁のない養女を副会長に据えた件については、私自身の実績でお答えします」 凜は手帳を開いた。 昨年、米国のハイランド・キャピタルが一条の地方子会社に仕掛けた買収について、私は交渉の責任者として——」「そこまでです」 書記席から声が飛んだ。 梶谷だった。タブレットを手に立ち上がり、眼鏡の奥から凜を見ている。「評議会の公式記録を読み上げます。ハイランド・キャピタルとの交渉。主導、一条本家法務部。同席者、一条凜。当時の肩書き、地方支社代理責任者」 梶谷は画面から目を上げた。「あなたは交渉の責任者ではありません。当時のあなたは代理責任者にすぎなかった。記録にそう書いてあります」「その記録は——」「それに」 梶谷は凜に最後まで言わせなかった。「規則上、同席者の弁明は事実の確認に限られます。自分の功績を並べる場ではない」 一拍おいて、梶谷は
翌朝九時。 聴聞の間は、昨夜の大広間よりひと回り狭く、窓がひとつもなかった。壁は石が剥き出しのままで、天井から吊られた鉄の燭台が長卓の上に黄色い光を落としている。 十三の椅子は半円に並べ替えられていた。その内側に木の椅子が一脚だけ置かれている。俺の席だ。十二家の視線を正面から受ける位置だった。 半円の端、一条の家紋が彫られた席は今日も空いていた。卓上には、昨夜と同じ真鍮の名札。『一条家代表 一条重蔵』。誰も片づけようとしない。片づけないこと自体が、評議会の答えなのだろう。 凜は壁際の傍聴席に座らされていた。俺との間には係員が二人立っている。目が合うと、凜は手帳の表紙に指を一本置いてみせた。結衣のシールがある場所だ。大丈夫、という合図だった。 長卓の脇には書記席がある。そこに梶谷がいた。タブレットを開いたまま、顔を上げずにいる。 議長が杖で床を打った。「これより、一条隼人の当主資格に関する聴聞を開く。審問官、始めよ」 エドモンドが立ち上がった。手にした革の書類挟みを、わざとゆっくり開く。「評議会の皆様。本日お諮りするのは、ただひとつ。この男に、一条という名を預けておいてよいか、どうかです」 灰色の瞳が俺を見下ろした。「資質の欠如を順に申し上げます」「第一に、この男は評議会の承認を受けずに当主を名乗った。三百年続く継承の手続きを知らなかったでは済まされません」 十二家の何人かが頷く。「第二に、評議会の一員である一条重蔵を評議会に諮ることなく裁判にかけ、牢へ送った」 エドモンドは空席の名札を指差した。「三十年この席を守ってきた者を分家の若造が独断で引きずり下ろした。評議会への明白な越権です」「第三に、一族の内紛を記者会見で世間に晒した。昨夜の席で皆様もご覧になったとおりです」 赤ら顔の男が鼻で笑った。昨夜、グラスを掲げていた男だ。「第四に」 エドモンドの声が一段低くなった。「この男は数年間、身分を隠し、無職の男として暮らしていた。その間に妻を他の男に奪われ、家庭ひとつ守れなかった」 聴聞の間に、はっきりとした失笑が広がった。銀髪の婦人が扇子の陰で笑っている。「妻ひとつ繋ぎとめられない男に、一族を束ねられるとお思いですか」 俺は表情を動かさなかった。絵里香のことを、ここで持ち出してくるとは思っていた。調べれば出てくる話だ。
機体が高度を下げ始めたのは、離陸してから十時間以上が過ぎた頃だった。 腕時計だけは取り上げられなかった。針は日本時間の夕方を指している。窓の下には、雪をかぶった山並みと、その谷間を埋める深い森が広がっていた。日本の山ではない。 滑走路は森を切り開いた一本きりで、管制塔も見当たらない。タラップを降りると、冷えた空気が肺に刺さった。 迎えの車で三十分ほど山道を登った先に、それはあった。 石造りの館だった。いや、館と呼ぶには大きすぎる。灰色の石壁が崖に沿って連なり、尖塔がいくつも霧の中に突き出している。正門の鉄扉には、剣を咥えた獅子と十三の星が打ち出されていた。「評議会の本拠地へようこそ」 梶谷が事務的に告げた。「一条凜さんは、こちらへ」 別の係員が凜の鞄を受け取り、左手の回廊を示した。凜は一度だけ俺を振り返り、小さく頷いてから歩き出した。背筋はまっすぐだった。 俺は本館の奥へ通された。部屋で荷を解く暇もなく、係員が扉を叩く。「十三家の方々が大広間でお待ちです。顔合わせの席になります」 * 大広間は聖堂ほどの天井の高さがあった。 中央に黒檀の長卓が置かれ、その周りに十三の椅子が並んでいる。背もたれには、それぞれ違う家紋が彫られていた。椅子はほとんど埋まっていて、国籍も年齢もばらばらの男女が一斉にこちらを見た。 長卓の端に凜が立っていた。別棟から連れてこられたのだろう。目が合うと、凜は目だけで無事を伝えてきた。「これが噂の……日本の分家の坊やか」 最初に声を上げたのは、赤ら顔の太った男だった。ワイングラスを揺らしながら、周りに聞こえるように笑う。「見たぞ、あの記者会見。一族の人殺しを自分から国中に晒してみせた」「身内の恥を、カメラの前で得意げに」 扇子を手にした銀髪の婦人が、口元を隠して続けた。「この評議会の家々は、三百年、どんな醜聞も内々で片づけてきました。外に漏らした家など、ひとつもありませんわ。それを、就任したばかりの若造が」「内紛を世間に晒した恥知らず、というわけだ」 赤ら顔の男がグラスを掲げると、あちこちから失笑が漏れた。長卓の奥では、エドモンドが腕を組み、薄く笑いながらこちらを眺めている。 凜の指先が、スカートの脇でわずかに握られた。 俺は長卓の前まで進み、足を止めた。「一つ聞きた
午前六時ちょうど。 ペントハウスの車寄せに黒いセダンが一台滑り込んできた。車体のどこにも社名や紋章はない。運転席の男は降りてこず、後部座席のドアだけが内側から開いた。「おはようございます。時間どおりですね」 座席の奥にいたのは、三十手前に見える男だった。細いフレームの眼鏡に皺ひとつない紺のスーツ。膝の上にタブレットが一台載っている。「評議会分析官、梶谷玲司です。本日の移動に同行します」 名乗りながらも、梶谷は俺を見ていなかった。見ていたのは、俺の後ろに立つ凜だ。顔、手元の鞄、靴、それからもう一度顔。棚に並んだ品物の値札を確かめる目つきだった。「一条凜さん。あなたの審査担当も兼ねています。以後、よろしく」 凜が一礼して乗り込み、俺も続いた。ドアが閉まると、窓ガラスに遮光膜が下りて外の景色が消えた。「行き先は?」「到着すれば分かります。それと、お二人の携帯端末をお預かりします」 梶谷が差し出したのは、内側に金属の網が張られた小箱だった。「断ったら?」「構いません。その場合、一条隼人さんは召喚に応じなかったものとして記録されます」 一条隼人さん……。会長とも当主とも呼ばない。評議会の中で俺がどう扱われているのか、その呼び方ひとつで十分に伝わってきた。 俺は端末を箱に落とした。凜もそれに続く。連絡が途絶えた場合の手順は、昨夜のうちに大垣と楢崎へ渡してある。ここで揉めても得るものはないし、最初の一手で手の内を見せる理由もなかった。 車が動き出す。梶谷はタブレットを開き、凜に向き直った。「移動時間を無駄にしたくないので始めます。副会長就任の妥当性について、確認事項が三つあります」「審査は本拠地で行うのでは?」「一条凜さんの審査はもう始まっています」 梶谷が画面を指で送る。「第一に、学歴。経営に関する専門教育の記録なし。第二に、職歴。一条の屋敷で養育され、その後、支社の代理責任者に抜擢。第三に、実績」 指が止まった。「評議会の記録上、あなたの実績はゼロです」 凜の眉がわずかに動く。「ハイランド・キャピタルとの交渉は——」「記録では交渉を主導したのは本家法務部です。あなたの名前は同席者として載っているだけです」「それは事実と異なります」「事実かどうかは問題ありません。記録にないものは存在しない。それが評議会の原則です」 梶
エドモンドが去った会議室には、ロンドン駐在の財務責任者の悲鳴の余韻だけが残っていた。 誰も席を立たない。円卓の上には召喚状と、剥がれ落ちた赤い蝋の欠片が散っている。「……会長」 最初に口を開いたのは、財務担当の大垣常務だった。重蔵の時代から支社に残った数少ない古参で、凜が再建計画の数字を任せている男だ。「欧州の口座が凍結されたら、来月の決済に穴が開きます。現地法人の給与、取引先への支払い、それから——」「落ち着け」「落ち着けと言われましても!」 大垣の声が裏返った。「評議会というのが何者かは存じません。ですが、一晩で欧州の銀行を一斉に動かせる相手です。ここは一度、先方の要求を——」「頭を下げろとでも言うつもりか」 大垣は言葉に詰まり、それから凜の方をちらりと見た。「せめて、凜様の副会長の就任だけでも一時保留にするという形で……。先方の心証もありますし……」 円卓の空気が張り詰めた。何人かの役員が同じことを考えていたと言いたげに目を伏せる。 凜は表情を変えなかった。ファイルを閉じ、大垣に向き直る。「大垣常務、ご心配はもっともです。ですが、私が椅子を降りて凍結が解けるなら、それは交渉ではなく、脅しに屈したという前例になります。一度屈した組織は、次も同じ手で揺さぶられます」「しかし……」「それに」 凜は俺を見た。「会長を見て下さい。慌てた様子は微塵もありません」 十人以上の視線が、一斉に俺へ集まった。 俺はスマートフォンを取り出し、ロンドンの財務責任者へかけ直した。スピーカーに切り替え、円卓の中央に置く。「俺だ。凍結された口座だが、その残高を今ここで読み上げてくれ」『は、はい……ロンドン、パリ、チューリッヒの主要三口座で、合計……』 受話口の向こうで、紙をめくる音が止まった。『……三百四十万円、です。会長、これは……?』「既に一か月前に欧州の資金は国内と北米の口座へ移してある。残っているのは、口座を維持するための最低限の額だけだ」 会議室がどよめいた。大垣が口を開けたまま固まっている。「一か月前……? なぜ、そんな時期に……」「あの男が名乗った評議会から、最初の書状が届いたのが一か月前だ。重蔵の件を公表した会見の直後、俺の名前だけを宛名にした招待状が届いている」 円卓がざわめいた。役員の何人かが、初めて聞く話に
結衣の誕生日会から二日後の朝。京都支社の役員フロアは、週明けの定例会議を前にして、電話の呼び出し音と足早な靴音で満ちていた。 重蔵の一件で空席だらけになった役員室も、今は凜が選んだ新しい顔ぶれで埋まっている。三十年分の膿を出し切った支社は、ようやく自分の足で歩き始めたところだった。「兄さん、今期の再建計画です。赤字部門の整理は予定より二か月前倒しで進んでいます」 凜が差し出したファイルの端には、結衣が貼った小さな苺のシールがついていた。ケーキの脇にカードを叩きつけられた一件を、この支社の人間は誰も知らない。 知らせるつもりもなかった。その時までは…… 会議が始まる五分前に、受付から内線が入った。『会長、お約束のないお客様が、すでにエレベーターに……。警備が止めようとしたのですが、本社発行の入館許可証をお持ちで——』 報告が終わる前に、会議室の扉が開いた。 白髪に黒のスーツ、灰色の瞳—— エドモンドは随員を二人従え、居並ぶ役員たちには目もくれずに、円卓を回り込んで俺の正面に立った。「定例会議には間に合ったようだな」「誰の許可でここに入った」「許可?」 エドモンドは鼻で笑った。「一条の名を冠する建物に評議会の者が許可を取る必要などない。分家では、そんなことも教わらんのか」 円卓にざわめきが広がる。若い役員の一人が、助けを求めるように凜を見た。 凜が一歩前に出る。「副会長の一条凜です。ここは経営会議の場です。ご用件でしたら、正式な手続きを通して——」「黙れ」 エドモンドは一言で遮ると、灰色の瞳で凜を頭から爪先まで眺め回した。「身寄りのない孤児を一条の家が情けで屋敷に置いた。評議会の記録には、お前のことがそう書かれている」 ファイルを持つ凜の指先から、血の気が引いていく。「それが副会長とはな。血も家名も持たない者が、評議会の者と対等に口を利けると思うな。——所詮、拾われただけの女だ」 会議室が静まり返った。 役員たちは凜から目を逸らし、誰も口を開かない。 この沈黙が凜にとって何を意味するのか、俺は知っている。円卓で誰にもかばってもらえなかった日のこと。鎖に繋がれた地下室で、自分は本当に家族なのかと問い続けた夜のこと。 俺は椅子から立ち上がった。「エドモンド。今の言葉は、ここにいる全員が聞いた。議事録にも残る。撤回する
「結衣、いい子にしてなかったから……ママ、結衣のこと嫌いになっちゃったの?」 その涙に、さすがの絵里香も言葉を失う。気まずげに視線を逸らし、小さく舌打ちをした後、「……そんなこと、言ってないでしょ」と呟いて寝室へ逃げるように消えていった。 胸の奥が激しく痛む。俺は結衣の小さな体を強く抱きしめた。「違うよ。結衣は世界一のいい子だ。パパがずっと一緒にいるから、安心して眠りなさい」 俺は結衣の小さな背中を優しくさすり続けた。 しゃくりあげる声はやがて規則正しい寝息へと変わり、泣き疲れた娘の身体からすっと力が抜ける。 その小さな身体を抱き上げてベッドへ運び、毛布を掛けた。 明日、あの女
冷たい雨がアスファルトを叩く音を背に、俺は自宅マンションの重い扉を開けた。 玄関は薄暗く、静まり返っている。濡れたコートを脱ぎ捨て、リビングの照明をつけると、そこには目を背けたくなるような現実が待っていた。 テーブルの中央に置かれたバースデーケーキ。六本のロウソクは火を灯されることもなく、生クリームは完全に乾ききって、ひび割れている。傍らには、結衣が一生懸命に描いた『ママの似顔絵』が、主役の帰りを待ちわびたまま、ぽつんと残されていた。 表面上は平静を保っていたつもりだったが、内面はすでに決定的に壊れかけている。 俺はソファに深く沈み込み、両手で顔を覆った。 過去の記憶が薄暗いリビ
俺の言葉に絵里香は鼻で笑い、周囲の経営者たちへ聞こえるほど大きな溜息をついた。「何を見間違えたのか知らないけれど、大袈裟に騒がないで。誤解よ、誤解。海外のビジネスシーンでは、これくらい当たり前の親愛の情だわ。本当に器の小さい男ね、あなたって人は」 絵里香は血相を変えるどころか、軽蔑を隠そうともせずに言い放った。「自分の無知を棚に上げて、大事な祝賀会の席で醜態を晒すなんて。恥ずかしいから、もう口を開かないで」 そこへ、横に立っていた樹が一歩前に出た。顔に張り付いた完璧な営業スマイルは、その奥の嘲笑を隠そうともしていない。「旦那様、あまり絵里香さんを困らせないでください。彼女は今、我
夜八時。リビングのテーブルには、結衣の名前が書かれたバースデーケーキと、不格好なリボンが結ばれた小さな箱が置かれていた。「パパ……ママ、まだお仕事終わらないの?」 五歳になる娘の結衣が、画用紙に描いた『ママへの似顔絵』を胸に抱きしめたまま、泣き出しそうな顔で俺を見上げている。 今日は結衣がずっと楽しみにしていた大切な誕生日だ。俺は娘の頭を優しく撫でると、スマートフォンを取り出して、妻である絵里香に電話をかけた。 数回のコールの後、苛立ちを含んだ声が耳に届く。『何? 今、ホテルで重要な祝賀パーティーをしているの。用がないなら電話してこないで』「今日は結衣の誕生日だ。ケーキを買って







